人の記憶は、何をきっかけに呼び覚まされるか分からない。
私はある考え事をしていたのだが、それとはまったく無関係のRとの会話が、ふわっと唐突に思い出された。
・
その時私たちは、メールで好きな小説の話をしていた。
私が、小泉八雲の『牡丹灯籠』が好きだと言い、
「もし私が、あのヒロイン(身分違いで惚れた男と別れさせられたショックから病を患い、無念の死を遂げた若い武家娘)のように、実の正体は骸(むくろ)だった、となったらどうする?逃げる?」
と聞いた。
もちろんRは、それでも可愛いと思う、と嬉しいことを言ってくれたのだが、その次の言葉が私には印象に残った。
「僕が先に死んだら、背後霊になってあなたを守りたいなあ……」
あんなにシャイで口が重たいくせに、メールだとこちらが気恥ずかしくなるようなキザなことを言う。
私は感心するやら嬉しいやらだったが、この言葉に込めた彼の想いが、思いのほか真剣だったことを、その後間もなくして知ることとなった。
不思議なもので、記憶というものは数珠のようにつながっている。1つ思い出されると、また1つと浮かび上がる。
死んだ後までも私を守りたいというRの言葉を思い出したとたん、今度は、彼が半年もの間、私の心の泥を受け止め続けてくれた日々が胸によみがえってきた。
その頃の私は、身内の恥や自分の弱みを、彼に極力言わないよう努めていた。
なぜなら、働き盛りで家庭もある忙しい男が、たまに逢う浮気相手の女に求めるのは、基本的には、快楽や刺激、気晴らしや愉しさだろう、と考えていたからだ。
しかし、日曜以外は研究室にいる彼と、毎日電話で話しているうちに、
日に日に横暴さがエスカレートしていた夫の言動を、ついこぼすようになっていった。
夫は相変わらず、ささいなことで激昂(げきこう)し、床や壁に物を投げ付け、暴言を吐いていたが、
そのうちに、深夜酔って帰っては私を叩き起こし、あろうことか、柔道の寝技をかけてくるようになったのだ。
巨漢の夫に組み伏せられ、小柄な私は息ができず、顔も目も真っ赤にして、何度「やめて!」と叫んだことだろう。
しかし私は、Rに軽い愚痴はこぼせても、ここまでされているとは、なぜか言えなかった。
言ったら、何かが崩壊する気がしていたのだ。
夫は何だかんだ言っても私を愛してくれていると、信じたかったのかも知れない。
それで、夫の暴言や暴力を、虫の居所が悪かったからとか、酔っていたからなどと、軽く見積もろうとしていた。
でも、ある日耐えきれなくなった私は、Rに泣きながら打ち明けた。
そうして気が付くと、仕事中のRに、これまで夫や姑にされてきたひどい仕打ちの数々を、2時間近くも訴えていた。
彼は論文の締切に追われながら、次の講義の準備もしなければならないのに、私の気が済むまでじっと耳を傾けていてくれた。私はハッとして言った。
「あっ、ごめんなさい。こんな暗い話をずいぶん長々と……お仕事の邪魔をしてしまったわね」
(ああ、失敗した!長く話しすぎた。さすがに重い女だと思われる!)
私は内心焦った。しかしRは、
「全然大丈夫ですよ。あと10分くらいは余裕があります」
と答えてくれた。
「でも、次の講義の準備があるでしょう?」
「ヘッドホンで聞いているから、パソコンはいじれるので、大丈夫。
それに、今のあなたを放っておけないでしょう。
僕には、話を聞いてあげることしかできませんが……」
Rと数ヵ月間交わしてきた甘い電話は、この時から、私の汚泥のような感情の吐露の時間に変わった。
私の口からは、出るわ、出るわ、自分でもあきれるほど、姑や夫に対する積年の恨み辛みが奔流(ほんりゅう)のように流れ出し始めた。
考えてもみて欲しい。
いくら好きな相手からとは言え、毎日仕事中に1時間も2時間も、自分には全く関係ない恨み言を聞かされることになったら、どうだろう?
しかも、それは何日続くか分からないのだ。
普通、堪(たま)ったものではないだろう。
こんなことを続けていたら、早晩Rに愛想を尽かされるに決まっていると思った。
しかしRは、毎日電話口で無念を訴え、泣き続ける私の声を、会議や講義が始まる直前まで、親身になって聞き続けた。
私は話し終えると、いつも不安になって確認せずにはいられなかった。
「ごめんね、こんな話を毎日聞かせて。嫌ならそう言ってね、すぐにやめるから。私のこと嫌いになっちゃうよね?」
自分の卑屈さが気持ち悪かった。
しかしRは静かに、あたたかく答えた。
「それが、不思議と嫌にならないんですよね~。可愛いもの」
「……え!?可愛いの?」
意外過ぎる言葉に、私は思わず目を丸くした。涙も一瞬で止まってしまった。
「そうだよ。何と言うかな……うちの娘は5歳だけど、そんなちっちゃい女の子が、『これが嫌だった』『あれが辛かった』って、一生懸命訴えている感じかなぁ」
Rのあまりの呑気な反応に、
(この人には、どこまでさらけ出せるのだろう?)
と、試したくなる気持ちが私の心の奥底に芽生えた。
「……実は私、姑と夫にずっと殺意を抱いてきたの。
人を嫌いになることはたくさんあったけれど、殺意を持ったのは初めて。
実際、姑には、包丁を握って向かっていったことがあるの。押さえられてしまったけれどね……。
それに、姑が大切に飼っていた仔犬がいたのだけれど、それをいじめたこともあったわ」
と口に出してから大いに後悔した。
(ああ、言ってしまった……ここまで言わなくても良かったのに……)
Rは動物好きで、昔から犬や猫を飼って可愛がっていた。
さすがにとてつもなく引かれるだろうと、私はスマホに痛いほど耳を押し付け、彼の様子をうかがった。
深いため息に続いて、苦しげな息遣いがかすかに聞こえてくる。
「誰にでも……」
少し間を置いて、Rが口を開いた。
「誰にでも、殺したい人間の1人や2人、いますよ」
「え?……Rにもいるの?」
「うーん……会議で、どうでもいいことを長々ともったいぶってしゃべる奴がいると、『コイツ、死ねばいいのに』と一瞬思うこと、あるなぁ……」
私は思わず吹き出した。Rも笑った。
「ほら、僕と話すと、すぐ元気になるでしょう?あなたには僕がいるから、大丈夫なんですよ」
「でも私、あなたの奥さんのことも憎らしいと思ってる。妬んでるの。
私が毎日旦那に虐(いじ)められているのに、あなたの奥さんは、当たり前の顔してあなたに守られてる」
私はどこまで自分の心の醜さを大好きな人に見せつけるのだろうか。
もうやめておけ、もう黙れと思うのに、なぜか止まらないのだ。
「……」
電話口の向こうで沈黙が続いた。
「嫌いになった?そうだよね。でも、これが本当の気持ちなの。私は『奥さんとお子さんを大事にしてあげてね』なんて、白々しいことは言えない」
ここ最近は、メールでも電話でもベッドの中でも、ずっとこんな会話を続けてきた。
もう十分本音を聞いてもらった。
これでRが離れていっても、仕方なかった。
「……僕だって、あなたの旦那さんに、あなたに触れて欲しくないと思いますからね……」
ようやくRが口を開いた。
「ずっと、こんな不愉快な話ばかり聞かせているわよね。ごめんね。とんだメンヘラ女で」
「なんで?そんなこと思わないよ」
「でも、普通とっくに嫌気が差すわよ。無理に付き合ってくれなくていいの。もう、十分だから。ありがとう」
「無理に付き合ってなんかないよ。そりゃ、あなたが悲しいと僕も悲しくなるけど……でも、大丈夫。
僕はあなたのトイレだから、全部吐き出していいんだよ。僕が全部流してしまうから、大丈夫なんですよ」
その後もRは、私の重苦しい話を聞き続けてくれた。
そうして半年も経ったころ、私はいつの間にか、心身がだいぶ穏やかで、楽になっていることに気が付いた。
当時、数年間苦しんでいたうつ症状が、ほぼ治まっていたのだ。
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