Rと付き合うようになって数ヶ月、朝から頭がこんなに不安でいっぱいになることはなかった。
夫と息子に朝食の支度をする手も、台所に立つ足も、ずっと震えていた。
2人を送り出すと、へなへなとソファに座り込んだ。
いつもなら、午前中の講義前に、Rから必ず朝の挨拶メールが届き、
今日は何時ごろに電話できると、連絡してくれる。
しかし、いつまで待っても、オンに切り換えた受信通知音は鳴らなかった。
私は、ソファから崩れ落ちるようにして、ラグマットの上に寝転んだ。
スマホを耳の横に置いたまま、しばらく動けなかった。
置時計の秒針の音を、どれほどの時間聞いていただろう。
(もう、終わってしまうんだ……)
呼吸が浅くなっている胸を、思わずかきむしった。
愚かだった……彼と別れるなんて、今の自分にとって最も恐ろしいことを、自ら口走ることで招いてしまうとは……。
時計の針がかすんで見えた。
間もなく昼だ。
もう2度と、Rから電話はもらえないのかも知れない。
そう思った瞬間、リンと、メールの受信音が鳴った。
私はガバッと半身を起こすと、スマホをつかんでメールを開いた。
Rからだった。
「今なら電話できます。ご都合はいかがですか?」
「はい。大丈夫です」
と返信すると、すぐに電話のベルが鳴った。
「はい、澪奈(れいな)です……こんにちは」
平静を装うつもりでいたが、声も震えていた。
「……こんにちは……」
と答えたまま、Rは黙っている。
「あの……本当に、ごめんなさい。ひどいことを言って。例えで言っただけで……」
電話口から、「はぁ……」と苦々しいため息が聞こえてきた。
いつものRとは明らかに違った。とても遠くにいる気がする。
「……別れたくなってしまった?」
私は恐る恐る聞いた。
「……別れたくなったというより、僕は、あなたと別れる覚悟を決めてしまいました……」
彼は、喉から絞り出すように言った。
「でも……でも、私は、全く別れる気はなくて……」
もっと言いたいことはあるのに、同じような言葉しか出てこないのが歯がゆかった。
「あなたに『別れた方がマシ』と言われた後、僕は、講義の準備が手に付かなくなってしまって……講義中も何を話したのか全く覚えてなくて……。
家に帰ってからも、やはり、翌日の講義の準備が全くできないまま、一睡もできなかった。
こんなこと、初めてでした……何も考えられなくなってしまって……」
Rは、私を責めるというより、うわ言のように話していた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい」
「……」
私は、最も知りたいことを、恐る恐る聞いた。
「また会ってくれますか?」
「……一晩中、あなたをあきらめる理由を自分に言い聞かせていました。
あなたを悪く思おうとしました。
あなたは一方的だとか、勝手な人だとか……あなたの悪口を一晩中考えていたんです……苦しかった……。
だから……すぐには、元の気持ちに戻れそうにありません。少し、時間を下さい」
別れの宣告に聞こえた。そう思ったら、なぜか心が静かになった。
「解りました。では、これで最後になるかも知れないのですね?」
「……そうかも知れません。気持ちが戻るのか、わかりません……かなり、覚悟を決めてしまったので……」
その答えを聞いて、私は下腹に力を入れて言った。
「では、お別れする前に、せめて1度、直接会って、話をさせてもらえませんか?」
私の口調は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「……」
Rはすぐには答えなかった。
逢えば、彼の気持ちは戻るかも知れないという一縷(いちる)の望みを捨てたくなかった。
彼の長い沈黙に堪えきれず、何か言いたくなるのを、必死に堪えた。
「わかりました……いつ、会いますか?」
「明日、講義の合間の10分でも、5分でもいいので、大学へお邪魔しても良いですか?」
「……はい、そんな短い時間でしたら、昼休みに来てもらえたら、会うことはできます」
「ありがとう……では、明日会いに行きます」
(つづく……)
※オススメ記事
※お気に召しましたらポチッとして頂けると嬉しいです🎶