Rと過ごした思い出の中でも、心に残っているのは、入浴の時間だ。
男女のことはめっぽう苦手なくせに、耳年増な私は、
男性は、浮気相手の女性には、なにか"サービスめいたこと"を期待しているのではないかと勝手に気を回し、
まるでプロの女性のように、石鹸を泡立たせた自分の全身を使って、Rの體(からだ)を洗ってあげようとしたことがあった。
するとRは苦笑して、そんなことをする必要はないと、優しく私を止めた。
そして、一緒に湯船に浸かるよう促し、
私を背後から包み込むように抱きしめた。
彼は、湯面から出ている私の肩や背中にしじゅう湯をかけては、全身をゆっくりと撫で続けるのだった。
髪や首すじに彼の吐息を感じながら、私は湯船の中でうっとりと揺れていた。
「ああ……なんか、眠っちゃいそう……」
と言うと、
「いいよ、眠っちゃいな」
と、彼が私の頭を肩で受け止めた。
こんな至福を知るほど、
夫の元へ戻った時の落差はひどく、
かえって苦痛が増していくという矛盾に、
私はますます引き裂かれていくことになる。
私たちは、月に2度逢うのがやっとだったから、
朝と晩には、欠かさずメールで「おはよう」と「おやすみ」を言い合い、
午後には、彼が、講義や教授会の合間に毎日電話をくれた。
彼は、どんなに忙しくても、時間ギリギリまで電話を切ろうとはしなかった。
せめて電波ででも、可能な限り長くお互いを感じていたかったのだ。
仲秋の名月の晩に、彼にしては珍しく早い時間にメールをくれたことがあった。
「子供が、幼稚園で教わってきた"お月見"をしたいと言うので、2人で近くの公園へ来ているんです」
お月見なんてする余裕など何年もなかった私は、
「あら、今夜は満月なんですね。私もベランダへ出て、見てみます」
と返信した。
久し振りに見上げた夜空は澄んでいて、月が静かな光を放っていた。
月に穏やかな温かみを感じたのは、初めてかもしれない。
「月が、綺麗ですね」
とRがまたメールをくれた。
「はい、本当にね」
こうしてリアルタイムでメールをやり取りできるのも、私たちにはとても貴重なデートの時間だった。
「あれ?もしかして、ご存知ないですか?」
Rが唐突に聞いてきた。
「何をですか?」
と私が聞き返すと、
「夏目漱石です」
と返ってきた。
私は、彼が何を言いたいのか分からなかった。
「夏目漱石?」
「いや、いいんです。気にしないで下さい。
娘が帰ると言い出したので、そろそろ家へ戻らなければなりません。
あなたも同じ月を見ているのだと思うと、少し慰められました。
いい時間でした。ありがとうございます」
私は部屋へ戻ると、さっそく彼が言った言葉を検索した。
それから、スマホをぎゅっと抱きしめたことを思い出す。
10年経った今も、窓の外をのぞいてみると、月は変わらず静かに私を見下ろしていた。
今夜の月は、満月を過ぎたばかりの「居待月(いまちづき)」。
これを書きながら目に入ったのが"待つ月"とは、単なる偶然だろうか?
ふいに、涙がこぼれた。
待つことはしないと、とうに決めたのに、 彼のことを想うとまだ泣いてしまう自分がいる。
彼は今夜も、夜通し論文を書いているかもしれない。
そして、この月を眺めているような気がしてならない。
(つづく……)
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