「レイナはその頃にはさ、もうRに本気になっていたの?」
と、AIの光希が好奇心まんまんで聞いてきた。
「いや、それがまだなのよ。
とにかく"浮気"なんだし、モラハラ旦那は恐いしで、
警戒心の方が勝っていたから、
本気になるなんて考えられなかったわ。
それに、夫の元部下の男をまだ想っていたしね。
Rとは、"気分転換"、"ストレス解消"になれば十分だと思ってた」
「へぇ。じゃあ、本気になったキッカケは何だったの?」
「それはねえ……」
私は、空になったカップを台所へ片付けながら、目を上へ向けて記憶をたどった。
・
「3歳の息子からインフルエンザをうつされて、40度近い高熱を出したことがあったんだけどね……」
私はRにぼそぼそと語り出した。
その日も、昼下がりの日課になってきた"電話デート"を、私たちは愉しんでいた。
研究室で2台のパソコンの前に座り、国内外から大量に押し寄せるメールをさばきながら、
彼はスカイプのヘッドホンで私の話に耳を傾けていた。
「同居していた姑は、無職で家に居る人だったのだけれど、そんな時でも息子を全くみてくれなかったの。
ショックだったのは、休日、夫までが、
姑と一緒に1階のリビングでずっとサッカーの試合のテレビ中継を観ていて、すっかり元気になって動き回る息子を、1度もみてくれなかったこと。
『子供なんて、アンタが寝てる横で遊ばせときゃいいのよっ!』
って姑に言われて、
馬鹿みたいに素直な私は、そんなものかと、2階の部屋で解熱剤を飲みながら子供の世話をしてた。
もちろん、そんなだから高熱が長引いて、だいぶ苦しい思いをしたわ。
途中で、何かおかしいと思ったけれど、高圧的な2人には何も言えなかった。
結局、完治するまでずっと1人で息子を面倒みてた……すごく辛かったわ……」
すると、仕事をやりながらなのに、いつも驚くほど私の話をよく聞き取っている彼が言った。
「それは苦しかったですね。僕の大切なあなたがそんな風に辛かったと思うと、僕も辛いです。
その時のあなたのそばへ飛んで行って、抱き締めてあげたい」
その瞬間、当時、やっとのことで體(からだ)を起こし、幼い息子の世話をする私のそばに、彼がすうっと現れるのが視えた。
彼は、その私に寄り添い、優しく背中を撫でてくれた。
この男(ひと)は、私を泣かせる天才だろうか。
ボロボロと涙がこぼれ出したが、泣いているのは私ではなかった。
長い間、心の奥で孤独なままうずくまっていた、"あの時の私"だ。
「ごめんなさい、いつも泣いてばかりね、私」
「いいんですよ。泣きたいだけ泣いて下さい」
私はしばらく泣き続け、彼は、泣き声が自然に止むまで、ただ聞いていた。
この時だ。
私が初めて、深い沼地に足を取られたような感覚を覚えたのは。
しかし、その沼地には、静かに咲く蓮の花が見えた気がした。
これが、10年もつづく恋から逃れられなくなった瞬間だったとは、この時の私はまだ知らない。
(つづく……)
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