子供はいくつになっても、母親の「女」の部分を、
どこかで見たくないと思っているのかもしれない。
それは、そもそも親自身が、「女」より「母性」を優先すべきだと信じているところがあるからではないか。
まぶたの裏に、10年あまり前の母の姿が浮かんでくる。
この遺言書を前にしてみると、母の私に対する理不尽な仕打ちは、この頃から芽生えていたのではないか——そんな気がしてくる。
その頃の母は、長年自宅介護してきた父がようやく介護施設に入所し、やっと一息付けるようになっていた。
負けず嫌いでしっかり者の母は、昔から弱気弱音が大嫌い。
父の介護も、
「他に迷惑を掛けないで、1人でやる」
と、嫁いだ後の私たち娘にも頼ろうとはしなかった。
私も妹もそれに甘え、父の介護を母1人に任せてしまっていた。
しかし、さすがの母も、70歳を目前に限界を迎えたのだろう。
「やっとゆっくり珈琲を飲めるようになったのよ」
と、1人になった家で、お気に入りのマホガニーのテーブルに座り、庭を眺めながら、大好きな珈琲をじっくり味わえるようになっていた。
そんな母を私は月に1度は訪ね、部活動に忙しい息子の近況や、自分の恋のノロケ話を語っていた。
母はそれを、とても愉しげに聞いてくれていた、と私は思っていた。
※45歳からの本気の恋のお話はこちら↓
そんなある時、母が唐突にこんな話を始めたことがあった。
「私のお友達にもね、旦那さん以外の男(ひと)と付き合っている人がいるのよ。
でも、その人、相手から性病をうつされちゃったんですって。
なんでも、その相手って、他に何人か愛人がいたらしいのよ。
彼女、後からそれを知って怒ってね、相手に治療費を請求したけれど、支払ってもらえなかったそうよ。
ひどいと思わない?」
100%相手の男が悪いと言いたげな口調に不快感を感じた私は、
だいぶ素っ気ない答え方をしたのを覚えている。
「複数の女を愛人に持つような男を選んだ、その女性自身にも責任があると思う。五分五分だよ」
今思えば、私の心の片隅には、こんな傲慢(ごうまん)な気持ちがあったと思う。
(私は、そんな愚かな女とは違う。軽薄な恋愛などしていない。
私は心底愛されているし、本物の恋を知っている)
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母は一瞬顔を歪め、黙り込んだが、すぐに話題を変えたので、私はこの話を、例の"A6版のノート"を見つけるまで思い出すことはなかった。
その後父が亡くなり、遺品の整理をしていた際に偶然見つけたそのノートをパラパラとめくった時、私は真相を知った。
そこには、母の字でこんなことが書いてあった。
「私はEに身も心も捧げてきたのに、あの人には他に女がいた。
あの人は私を裏切ったんだ!
私が子宮頚がんに罹(かか)ったのも、あの人のせいだ。
なのに、自分がうつした証拠はないと、治療費も払ってくれない。
悔しい。恨んでやる!」
母が子宮頚がんの手術をしたのは、60歳手前のことだった。
父の病状が日に日に悪化していく中、介護の負担が増えてきた母の体が悲鳴を上げたのだと、私と妹は考えていた。
幸い早期発見だったため、たった1泊の内視鏡手術で無事治癒した。
(まさか、あの時のガンが、Eさんからうつされたものだったというの?)
いや、移した相手がどうというより、そんな前から母が父以外の男性と関係を持っていたことに驚いた。
このノートに書かれた日付を見ると、母がEに複数の浮気相手がいたことを知ったのは、さほど前のことではないようだった。
つまり母は、手術から10年あまり経って、Eに複数の浮気相手がいたことを知り、怒って治療費を請求したようなのだ。
(あの時、女友達の話だと言っていたのは、"ママ自身"のことだったんだ……)
私はそのノートをぴしゃりと閉じ、もとあった場所にねじ込むように戻した。
こんな女々しい、みじめな女が母だなんて、知りたくなかった。
美人で明るく、気が利いて、良妻賢母であろうといつも頑張っている、娘や孫を人一倍可愛がってくれる大好きな母。
そんな母が、いつまでもこんな男のことでウジウジ悩んでいるはずがない。
私はそう思いたかった。
父を見送った後、
「不思議と淋しくないのよ。やるだけのことはやったし、スッキリしてるわ。
近所の人やお友達には言えないけどね……」
と肩をすくめ、でも清々しい表情で、私たち姉妹や孫と幸せそうに接している母は、
ストレス発散に逢っていた程度であろう、あの不埒(ふらち)な男のことなど、とうに整理がついているように見えていたのだが……。
(つづく……)
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