「もう5時だわ、特急に乗り遅れちゃう。着替えないと!」
私は、彼の胸に乗せていた頭を慌てて起こした。
(私、こんな時間まで何をしていたのだろう?)
と、急に正気に戻ったようになる。
今頃小学5年生の息子は下校し、ひとり家で私を待っているにちがいない。
いつものようにお友達の家で遊んでくれていれば良いのだが……。
5時の特急列車で帰れば、夫が帰宅するまでになんとか夕食を用意できる。
私の頭の中では、にわかに現実的な思考が回り出した。
「え、もうそんな時間ですか!?
8時間もベッドいたのかぁ……ハワイへ行けますねぇ。あなたといるとフライト時間も短くなりそうだ」
と彼がのん気に笑った。
そそくさと帰り支度を始めた私を横目に、彼はのろのろと半身を起こすと、
「ああ……あなたと結婚したかったな……」
とつぶやき、大きくため息をついた。
私はRの大げさな物言いに苦笑した。
「何を言ってるの。ほら、Rさんも奥さんがお夕食を用意して待っているのでしょう?
遅くならない内に帰らないとね。
疑われたら私も困るから」
と言って、彼の背中を励ますように叩いた。
今にして思うと、なんてつまらないセリフを言ったものだろうと思う。
でも、この時の私には、Rは単なる浮気相手であり、"本命の男"の代わりに過ぎなかったのだ。
その"本命の男"とは、夫の部下だった。
有能であるばかりか、若く、とても美しい男だった。
彼と接する女性の誰もが相好を崩した。
しかし夫の事務所で働く私には、
その好意をおくびにも出すことは許されなかった。
それでも私は、彼と一緒に働ける毎日に秘かに胸弾ませていた。
彼の存在は、モラハラ気質の夫との息苦しい生活を耐える上で、私の心の大きな支えとなっていた。
ところが、夫はある日突然、彼にクビを言い渡したのだ。
それが、Rと出逢う半年前のことである。
・
特急に飛び乗って家へ帰ると、息子がリビングでテレビを観ていた。
「お母さん、どこへ行ってたの?お腹空いたよ」
と言われ、私はごめんねと謝りながら素早く部屋着に着替えると、座る間もなく夕飯の支度を始めた。
食卓におかずを並べながら、チェストの上の姿見に映った自分を見る。
(何か変わったところはないかしら?)
いつになく頬は上気し、肌には艶が出て、瞳は潤んでいる。
(まずいわ……これでは旦那が違和感を抱くかもしれない。もっとくたびれた様子でいないと)
私は髪に指を入れるとくしゃりと乱し、いつものような生気のない表情を作った。
しかし、結局この日は夫は夕食に帰ってこなかった。
いつも18時を回ると息子と私は先に食べ始め、20時を過ぎると食卓を全部片付ける。
夫は連絡をよこさない人だが、この時間になっても帰らない時は、たいてい遅くまで飲んでくるのだ。
私はひとまず胸を撫で下ろした。
酔っ払いには、今日の私の変化は気付けない。
家事を済ませて息子を寝かせると、シャワーを浴びようとしたが、ふと思い立ってやめた。
體(からだ)からふわりと立ち上ったRの残り香を、消したくないと思ったのだ。
汗ばんだ體も気にせず寝間着に着替え、ベッドに入った。
夫が帰宅するまでは、私の最も静かな自由時間だ。
Rにメールしようかどうか迷った。
さっきまで逢っていたのにうざい女だ、と思われるだろうか?
まして、私の體は最後まで彼を受け入れることができなかったのだ。
私は彼の気持ちを探りたくて、メールを送った。
《今日は、とても素敵な時間をありがとうございました》
30分経ち、1時間経っても、彼から返信はなかった。
さらに時間は過ぎていく。
(やっぱり、幻滅されたんだわ……)
少し残念な気持ちがしたが、まあ、しょせんは浮気相手にすぎなかったということだ。
私はスマホをベッドサイドテーブルに置くと、目を閉じた。
うとうとしていると、ふいに階下の玄関から物音がしたので、ギクリとして目を開いた。
夫が帰ってきたか?
いつの頃からか、玄関の辺りで少しでも物音がすると、體がびくっと反応するようになった。
しばらく耳をすませたが、どうやら夫ではないようでほっとする。
もう0時だ。再び眠ろうとして、なんとなく気になりスマホを手に取った。
すると、ロック画面にメールの受信通知があった。
Rからだった。
《こんばんは。もう眠りましたか?私は娘を寝かしつけていて、返信が遅くなり申し訳ありませんでした。
逢ってくれてありがとうございました》
受信時刻を見ると、今しがた届いたばかりだ。
私は急いで返信を書いた。
《私ばかり気持ち好くしてもらって、あなたには何もしてあげられなくて、申し訳なかったです》
こう書いて一瞬迷ったが、送信ボタンを押した。
返信はすぐに来た。
《僕もすごく気持ち好かったですよ。あなたはとても素敵でした》
優しい人だ。挿入できずに終わって、男性が気持ち好いはずがない。
《Rさんはいけなかったでしょう?ごめんなさい》
と送ると、またすぐに返信が来る。
《何を言っているんですか。謝らないで下さい。僕は本当に気持ち好かったんですから》
《だって、男性は挿入できなかったら気持ち好くないでしょう?
私は夫によく「マグロ女」って言われます。男性を気持ちよくしてあげるのが下手なんです。ごめんなさい》
彼にこんなことまで話してしまうとは思わなかった。
私はこれまで、誰ともセックスに関わる話をしたことがなかったのだ。
彼の返信を待つ時間がとても長く感じられた。
《テクニックなんて関係ありませんよ。
抱きしめているだけでこんなに気持ち好いのは、僕も初めてでした。
セックスは2人で創るものですから、僕1人では気持ち好くなれません。
あなたは本当に素敵でした。
いつまでも抱いていたかった。
もう逢いたくなってます》
私の目から涙があふれ出した。
《そんな優しいことを言われたら、私、泣いてしまいます》
《泣かないで下さい。あなたはとても大切な人なんですから》
そのとき階下で物音がした。酔った夫が私を大声で呼んでいる。
深夜でも、私は夫にしつこく起こされる。
そしてほうじ茶を淹れ、30分は話を聞いてやらないと、夫は駄々っ子のようにふて腐れ、「お前は最低な女」だとか「妻として失格だ」などとののしりが止まらなくなる。
私はRに夫が帰宅したことを伝え、名残惜しくメールを閉じると、仕方なくベッドから這い出して階下へ降りた。
いつものようにひとしきり相手をしてやると、夫は満足して寝てくれた。
私もやれやれと隣のベッドに横になる。
ふとんをかぶると、全身がRの香に包まれた。
母の子宮に抱かれる胎児のような深い安堵を覚えた。
こんな感覚、忘れていた。
體から柔らかな光が静かに放たれているように感じた。
薄らいでいく意識の中で、まるで竹にくるまれたかぐや姫のようだわと、笑みがこぼれた。
(つづく……)
※オススメ記事