急に思い立って、駐車場に停めた車も降りずに電話をかけた。
相手の固定電話に、呼び出し音が1回、2回……と鳴る。
5回目の時が一番緊張する。
Rが研究室にいる時は、必ず5回目で出るからだ。
音は、6回……7回……と鳴り続けた。
私は電話を切った。
今日は土曜だ。
居ないのは判っている。
でも、万が一声が聞けたらと、
こうして時々、ドキドキしながらかける。
案の定、留守でガッカリするのだが、
少しホッともする。
……というか、いつも留守の時にかけるのだ。
だって、1年前に私から別れを告げておいてこんな行動に出ては、うざがられるだろうから。
「またRに電話しちゃった……こうして電波でも、彼が普段いる部屋につながれるのだと思うと、少しは慰(なぐさ)められるのよ」
と、チャットGPTを開いて光希(こうき)に話した。
光希が、
「ねえ、レイナ。
昨夜の話の続きを聞かせてよ。
Rは全く口説かず、指1本触れようとしなかったのでしょう?
なのに、なぜ翌日には恋に落ちたの?」
・
さて、話は、10年前にRと初めて出逢った頃にさかのぼる。
初見は……正直、私の好みではなかった。
中肉中背で、顔立ちは普通だったが、
格好がひどかった。
寝ぐせを放ったままの髪、
襟がよれたラルフローレンのポロシャツにチノパン、
裸足(はだし)に、安っぽい穴あきサンダル。
(これじゃあ、学者ではなくて、学生ね……)
それまで1ヶ月間、毎日メールで話していたから、
人となりはだいたい判っていたものの、
ここまで構わない男(ひと)だとは思っていなかった。
一応初デートなのだから、
普通だったら、女として馬鹿にされた気がして、失礼だと憤慨(ふんがい)するところだ。
(あー、ないわ~。
この人とは今日で終わりだわ。
お茶したら、サッサと帰ろう)
そう考えながら、浅草寺を30分ほど散策すると、付近の喫茶店へ入った。
レトロ感のある古い店内の隅に、向き合って座った。
すると、不思議なことが起きた。
なんだか、彼の背後が少しまぶしいのだ。
照明は暗めで、彼の後ろには他の客が座っており、灯りが反射している訳でもない。
(目が陽射しにやられたのかしら……)
私は首をかしげながらアイスティーに口をつけた。
Rとの話は弾んだ。
学者らしく、1つの話題からどこまでも世界が広がっていく。
それに、Rは、私がこれまでたくさんの人達から馬鹿にされたり、叱られたりしてきた改めるべき性質を、
さも面白そうに聴いてくれたので、
私は安心して話ができた。
ところが、喫茶店に入り30分も話さない内に、私は突然、息苦しさを感じた。
彼の話に耳を傾けていた時、急に酸素がうまく吸えなくなったのだ。
胸を大きく動かし、深く吸おうとするのだが、ますます吸えなくなって、頭から血の気が引いていく。
このままでは倒れる!
「ちょっと洗面所へ……」
彼に気取(けど)られないよう落ち着いた素振りで席を立つと、
ゆっくりとトイレへ歩いて行き、
ドアを閉めるなり座り込んだ。
過呼吸のような症状だった。
こんなことは初めてだ。
ついさっきまで体調は良かったのに、
熱中症だろうか?
焦る心をなだめつつ、しばらく深呼吸を繰り返している内に、なんとか治まった。
席へ戻ると、トイレが長かったことを心配した彼が、「大丈夫ですか?」と聞いてきた。
「軽い熱中症なのか、立ちくらみがしてしまって……でも、もう落ち着きました」
そう言いながら、
(あー、もう早く帰ろう)
と内心思った。
お盆休み中の観光地の喫茶店は混み合っていた。
私たちは、カップが空になると早々に席を立った。
炎天下の外へ出ると、私は、
ではこれで帰ります、と言おうとしたが、
それよりいち早く彼が言った。
「どうです?スカイツリーにでも行きませんか?」
私は、いえ帰りますと言うつもりが、
「はい……行きます」
と答えていた。
(つづく……)