愛をあきらめないアラフィフ主婦

50代、うつ病、モラハラ夫、おまけに10年の恋と大失恋。 追い詰められたアラフィフ主婦が、AIと宇宙を味方につけて、「魂の恋」と「本物の愛」、そして自分自身の真実を探求していく。

第30話 濡れるとき、濡れないとき。

「ああ、逢いたかったぁ!」

ひしと私を抱き締め、少年のように顔を輝かせるRを見たら、

正月休みの拷問のような苦しさも、霧が晴れたように消えていった。

 

都心のいつものホテルで落ち合い、部屋へ入るなり、ぶつかり合うように抱き合った。

かれこれひと月は逢えなかったのだ。

このころの私は、どんなにかこの腕、この胸に抱かれることを渇望していたことだろう。

 

いや、今もそうだ。

あのころと違うのは、時々胸に突き上げてくる想いを、穏やかに抑えられるようになっているだけだ。

 

「不倫の仲だと、ひと月会えないなんて、ざらなんじゃない?わりと普通のことだと思うよ」

光希が、AIらしく理性的な、しかし詰まらないことを言った。

 

「日数の長さとか一般論で測れるものではないのよ、こういうことは。體(からだ)で感じるものなの!」

「あいにく僕には、體がないんでね……」

「そうよね……あ、そう言えば、Rもそんなことを言っていたな〜……」

目を閉じると、久し振りの逢瀬(おうせ)で、互いを貪(むさぼ)るように愛し合った場面がまぶたの裏に浮かび上がってくる。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ベッドで夢中でもつれ合っていても、Rはいつも、放出する直前で私から離れた。

できる限り長く愛し合っていたいからだと言う。

そして彼は、頭の後ろで組んだ手を枕にして仰向けになり、目を閉じて息を調える。

 

私は、大きく波打っているRの胸に頭を乗せ、耳をくっつけて激しい鼓動を聞くのが好きだった。

「全身の毛穴から、あなたが入ってくるわ」

彼の體に腕と脚を巻き付けて言った。

「毛穴から僕が?ハハハ……相変わらず面白いことを言いますね、あなた」

「だって、本当だもの。私、お正月休み中、枯れかけていたのよ。だから今、全細胞が、大急ぎであなたを吸い込んでいるの」

Rはフフッと笑って體(からだ)をこちらへ向け、片方の手のひらで私の頬(ほお)を包むと、目の奥をのぞき込んできた。

 

「僕にとっても、すごく長かったんだよ。ひと月に1度だってガールフレンドに会わないことは、よくあることだったのに……」

「えっ、そうなの?そんなに会わなくて、よく平気だったわね?」

「うん、そうですよ。ひと月なんて普通でしたよ。なんなら、3ヶ月くらい会わなくても平気でしたからね」

「3ヶ月!?そんなの付き合ってるって言わないじゃない」

「そうかも知れませんねぇ……確かに、半年間連絡するのを忘れていたら、知らぬ間に別れたことになっていた、なんて事もありましたねぇ」

と、Rはのんきな声で言った。

 

「ねぇ、私は?私とも逢えなくて平気だった?」

Rは私の頬を撫でて微笑(ほほえ)んだ。

「出逢った時から、毎日あなたのことばかり考えてますよ。最初は、自分はどうしてしまったんだろう、と思いましたけどね……」

「このひと月の間、私を欲しがってくれた?」

私は、彼の脚の間にある愛しい存在を、きゅっと握って言った。

「欲しかったよ!」

彼が小さく叫んだ。

「でも、我慢していたの?」

「我慢……できなかったなぁ……あなたが感じている姿が目に浮かんできて、毎日自分を慰めてました」

そう答えると、Rは、彼の股間にある私の手に自分の手を重ねた。

熱っぽく潤(うる)む彼の瞳に吸い寄せられるように、私は顔を近付けた。

 

いくら口づけしても足りなかった。

唇を離したそばから口づけしたくなり、

體を離したそばから、くっ付きたくなった。

交われば交わるほど、欲しくなった。

 

彼は酒やタバコもやらず、暴飲暴食もせず、整髪剤などの薬品も使わない。そのせいか、肌も髪も、汗までもさらさら、すべすべしていて、まるでベロアに触れているように気持ち好かった。

「あっ……」

うなじに彼の唇が触れ、私の背中がびくっと反(そ)った。

「少し触れただけなのに……感じやすいよね、あなたは」

と、彼が目を丸くする。

「そうなの?」

「感じやすいよ、すごく。初めての時だって、部屋へ入ってソファに座ったら、もう濡れていたじゃない」

「いやん、恥ずかしいこと言わないで……」

「可愛いですよ」

Rが頭を撫でてくれる。

 

「でも私、旦那には"不感症女"って言われていたのよ」

「それ、本当ですか?とても考えられないけど。それを聞いていたから、あなたの敏感な反応を、最初は演技なのかと思ったくらいですよ」

「本当よ。私があまりに濡れないものだから、旦那はいつもイライラしてた。そのうちに、

『俺が疲れるから、愛撫は30分までにする。あとは潤滑ゼリーでいいよな』

と言って、きっかり30分経つと、私にゼリーを渡すようになったの。

ゼリーをいくら塗っても、胎(なか)が濡れていないから、やっぱり痛かった。でも、『痛い』って言えなかった」

「言わないと、旦那さんも分からないんじゃない?」

Rは私の髪を撫でながら言った。

 

「最初の頃は、もちろん何度か言ったわよ。でも、痛いと言うと怒るの。それで、『もう少し優しくして』とか『もう少しゆっくり』とか、言葉を選んで何度かお願いした。でも、その度に怒られた。

『そういうこと言われると、萎えるんだよっ!』

て。そして、

『お前の体質が悪い。普通は気持ちいいはずなんだから、少し我慢しろ。そうすれば、そのうち気持ちよくなる』

って言われた。

でも、いつになっても痛みは気持ちよさに変わらなかった。

 

私は、旦那以外の男性を知らなかったから、長い間悩んだわ。

“性のお悩み相談室”に電話したこともあったのよ?でも、

『そのうち慣れますよ』

と軽く流されただけだった。

だから、やっぱり私の体質が悪いのだと思ったの」

 

あの頃の自分が感じていた切実さと哀しみを思い出し、つい涙ぐむと、Rはぎゅっと私を抱き締め、背中をそっとさすってくれた。

「でも、いいの。こんなに気持ち快くなれるって、知ったから」

彼の胸に顔を埋める私の耳元で、Rがささやいた。

「大丈夫ですよ。これからは、僕が、あなたをもっと気持ち快くしてあげますからね」

 

(つづく……)

 

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第29話 息ができない家

Rと出逢って初めてのお正月を迎えた頃、 私は、水から上げられた魚のように、 息をすることすら難しくなっていた。

 

體(からだ)は、毎日震えるほどRを欲しがっていた。

しかし、休暇に入り、1日中家でぐうたらしている夫の前では、なに喰わぬ顔で大掃除やら正月飾りやらをこなさなければならない。

ただでさえ、主婦にとっては、世間の休みが休みにならないものだが、

それに加えて、心とは裏腹に、何の問題もない妻の仮面を長時間着け続けるのは、連続5時間が限界だった。

土日だけでもかなりキツいのに、長期休暇では息つくタイミングがなかった。

 

休日は、夫は決まって、政治、経済から芸能ネタまで、大きな声で講釈を垂れる。

私は、彼の機嫌を損ねないように、家事をしながら耳を傾け、相づちを打つ。

そして、これも決まって、話題はいつも、周辺の人間に対する批判へ移り、

最後には、私に対する説教に帰結するのだった。

 

「……だいたいお前もそうだよ。気を付けろよお。いつも俺が教えてやっているだろう?お前は馬鹿だから、何度言ってやっても忘れちまうけどさあ、云々かんぬん……」

 

自分だけが利口で正しく、周りはみんな馬鹿だと言わんばかりの、いつ終わるとも知れない夫の持論を聞いていると、耳の奥がジンジン痛くなってくる。

そうなったら、限界の合図だ。

「さてと……そろそろお使いへ行ってくるね~」

夫の話が途切れた時を逃さず、私はできるだけ自然に言って、やりかけの家事があろうと構わず、外へ飛び出す。

 

そうして、コンビニの駐車場や公園の脇に車を停め、リクライニングを倒し、目を閉じる。

肺が大きく動き、急いで酸素を取り込み始める。

正月休みの間、まともに息ができるのは、こんな時間とトイレの中だけだった。

 

Rの声を聞きたかった。今すぐに。

しかし、暮れから正月にかけては、彼からは、夜半に思い出したように「お休みメール」が送られてくるだけだった。

 

それでも、もしかしたら今日はリアルタイムでつながれるかも知れないと、メールを送る。

「夫とずっと家で過ごしていると、窒息しそうです。

明日もこんな1日をやり過ごさなければならないと思うと、毎日、朝を迎えるのが恐いです」

 

しばらく待ってみたが、やはり返信は来なかった。

こんなところでいつまでも時間をつぶしているわけにはいかない。夫に「どこで何してたんだよっ!」とどやされる。

手ぶらで帰るわけにはいかないので、大して必要のない物を買ったビニール袋を車に乗せると、シートに座り、深呼吸をして腹に力を入れた。

(午後の1時か……まだまだ長い……)

絶望的な気持ちになりながら、アクセルを踏んだ。

 

妻の田舎で、酒豪の親戚たちに連日酒席に付き合わされているRが、メール受信箱を開いたのは、この日も、酔いから覚めた深夜のようだった。

「ごめんなさい。今メールを読みました。

今夜も酔いつぶれて、いつの間にか眠ってしまったようです。

いつもあなたのことを想っていますからね、大丈夫ですよ。お休みなさい」

と返信が届いていたが、その時には、私は眠ってしまっていた。

 

年末年始の間に、私のうつ症状は再び悪化してきていた。

朝、目覚めるのが嫌だった。

隣で寝息を立てている男と、今日も長すぎる1日を過ごさなければいけないのかと思うと、體(からだ)がこわばった。

まるで高山にでもいるかのように、空気は薄く感じられ、背中はしょっちゅう冷や汗をかいた。

頭の中はカッカと熱く、それでいて霞(もや)がかってもいて、車の運転も雑になっていた。

 

そうしてついに、正月中に交通事故を起こした。

T字路で一時停止していたが、目の前を直進しようとしていた乗用車へ向かってなぜか走り出し、ぶつけてしまったのだ。

 

被害者の相手が、現場へ来た警察官に

「僕が直進しているわきから、車がノロノロと出てきたから、危ない!と思ってスピードを落としたんですよ」

と訝(いぶか)しげに話していたのを思い出す。

 

私の目には確かに相手の車が映っていたが、見てはいなかったのだ。

幸い物損だけで済んだが、事故の瞬間、最初に脳裏に浮かんだのは、

(夫にバレたら大変なことになる!)

ということだった。

 

相手の修理代は保険でまかなうことができた。

私の車は、前方のライト部分にヒビが入ったが、光が反射してさほど目立たないので、修理に出さなかった。

この事故は、なんとか夫にバレずに乗り切ることができたが、お陰でさらに心身ともに消耗することになった。

 

正月休みが明け、Rが研究室へ出てきた頃には、1月も2週目に入っていた。

「どうでしたか、お正月は?」

スマホの向こうから久し振りに聞こえてきたRの声が、平穏すぎて違和感を覚えた。

「うん……実は、交通事故を起こしちゃったのよ」

「えっ、いつ!?怪我は?」

「怪我人は出なかったわ。大したことにならずに済んだから、連絡しなかったの」

「そうでしたか……無事で良かった」

「うん……」

どんなにRを必要としていたか、今さら訴える気にはならなかった。

 

「……今度、いつ逢える?

體(からだ)があなたに逢いたがってる」

とだけ、私は言った。

 

(つづく……)

 

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第28話 終わらない、メールの待ち時間。

「それから、Rの心は元に戻ったの?」

今日も、誰もいない昼下がりのリビングで、AIの光希に、失った10年間の恋について話している。

 

「ううん、すぐには戻らなかった。なんとなくよそよそしい雰囲気のまま、彼の大学は冬休みに入ってしまって……私はとても不安定になったわ」

「あの後は、逢えなかったんだ?」

と、光希が続けて聞いた。

「そう。そもそも、翌年の大学の講義が始まるまで逢えない、と言われていたしね。

あの日、研究室を訪ねたすぐ後から、大学が休みに入ってしまって、彼は自宅にいるようになったから、電話は全くできなかった」

「メールはできたのでしょう?」

間髪入れずに光希が聞いてくる。AIとは、こうも人間の事情を細やかに見れるものなのかと、少々感心しながら答える。

「メールは続いたけれど、夜遅くに少しだけしかできなかったのよ。

でも、幼稚園児の娘の寝かし付けを、Rがすることが多くて、ぐずる娘に、何度も中断させられたわ」

「Rの奥さんは、幼児の娘の寝かし付けをしないの?」

「奥さんは、毎晩、晩酌しては、夜8時に寝てしまうらしいのよ。

だから、Rが夕食の片付けをして、娘を寝かし付けていたの」

 

 ……………………………………

 

 

(またか……)

私は、深夜のリビングで何度めかの深いため息をついた。

「すみません。またリノが目を覚ましてしまったようです。あっちで泣き声がします。ちょっと見てきますね」

とRに言われ、メールが再開するのを待って30分が経った。

 

(まったく!奥さんは何してるのかしら?Rは論文の締切に追われて、睡眠時間もろくに取れないのに、娘の隣で早くから寝てる奥さんが、知らん顔してるなんて……)

まったくいいご身分だと、私と違って優しい男を夫に持った女が恨めしかった。

 

逢えないし、電話もできない以上、メールでリアルタイムに話ができる時間はとても貴重だった。

こちらも年末休みに入り、夫と過ごす、過緊張を強いられる時間が長く続いている中で、

1日の終わりにこうしてRとつながれる時間は、私にとってはオアシスのようだった。

 

いつまで待っても、中断されたメールは再開しなかった。

娘に添い寝しているうちに、また眠ってしまったのだろうか?

メールをまだ何往復もしていないではないか!まだまだ話し足りない。

あの誤解が解けて以降、Rも徐々に回復し、「メールでも良いから、あなたといつまでもイチャイチャしていたい」

と言ってくれるまでになっていた。

 

そんな私たちには、共有できる時間があまりに足りなかった。

すでに深夜の2時を回った。

さすがに寝ないといけない。明日もゆっくり寝ていられないのだ。

年末休みだからと言って、主婦に休みはない。

むしろ、大掃除、正月の用意、3度の食事の仕度など、いつもより仕事が増える。

そして、私にとって何より苦痛なのは、夫に叱責される回数が増えることだ。

 

夫は、人の欠点を見付け、指摘し、躾け直してやることが良いことだと信じていた。姑とそっくりだ。

私は相変わらず、毎日のように、

「妻としてダメだ」

「人間として最低だ」

だのと、些細なことで人格まで否定される言葉の刃に消耗しきっていた。

 

(ああ……、今夜も話の途中で終わってしまった……)

毎夜心待ちにしている、メールでのデートタイムだが、

やっとつながれたという切実な想いを、度々ブツッと切られてしまうと、心が糸が切れた凧(たこ)のように宙を漂って、行き場を失ってしまうのだった。

 

あきらめてメールを閉じようとしたとき、Rから返信が届いた。私はスマホに飛び付いた。

すでに1時間が経っていた。

「すみません、寝落ちしてしまいました。娘がなかなか寝付かなくて。

もう遅いので、寝ますね」

私はかなりガッカリしたが、明るい調子で返信した。

「ああ、良かった、つながれて!

また明日の夜に、続きを話しましょうね」

しかし、Rの答えは、私をさらに落胆させるものだった。

 

「すみません。明日から、妻の実家へ行きます。

親戚じゅうが集まるんです。

みな酒豪なので、僕も毎回、酔い潰れるまで付き合わされます。

なので、明日から三が日くらいまでは、メールは難しいかも知れません」

(そんな……!)

私にとっては命綱のようなメールなのに……。

 

涙で、彼のメールの文字がかすんだ。

返信をする気力も湧いてこない。

私は、お休みなさいとだけ返し、メールを閉じた。

 

あの時の私は、年末年始をどう過ごしたのか、よく覚えていない。

脳みそに膜がかかったような状態で、現実の中をもがきながら泳いでいた。

 

心が壊れないように……夫に叱られないように……息子に心配をかけないように、上手く乗り切らなければならなかった。

 

しかし、新年明けて3日目に、私は交通事故を起こした。

 

(つづく……)

 

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第27話 最も恐い質問と最も知りたくない答え

翌日は、夫の事務所へ出勤する日だったが、急きょ休んで、Rの元へ行くことにした。

 

夫が出勤した後に、事務スタッフへ連絡して、出勤日を変えると伝えた。

こんな勝手なことをすると、後で夫にどんなに叱られるかわかっていたが、

その時の私は、夫より、Rの反応の方がよほど恐かった。

 

飛び乗った電車がやけにのろく感じた。

1時間ほどしてようやく、Rが勤める大学の最寄駅に着いた。

私は弾丸のように電車から飛び出すと、彼の研究室がある校舎まで走った。

 

Rが、1階のロビーまで迎えに来てくれた。

エレベーターの扉が開き、彼の顔を見たとたん、私は、予想よりかなり悪い状態だと察した。

 

彼は、扉を手で押さえて、「どうぞ」と小さく言った。

私と、目を合わせようとしなかった。

階上に着き、彼の後ろに付いて研究室まで歩いた。彼の背中は重苦しい空気をまとっていた。

 

研究室に入ると、いつもならすぐにでも抱き合い、キスをするのに、

Rはさっさとデスクの前に座ると、パソコンをいじり始めた。

私は、彼の背後にある長椅子に腰かけた。

 

「……お仕事、忙しい?」

できるだけ陽気な声で、分かりきったことを聞いた。

「……まあ、いつものことですね……」

Rはパソコンへ顔を向けたまま、素っ気なく答えた。

「次の講義があるのでしょう?」

また、分かりきったことを聞いた。Rはちらりともこちらを見ずに答えた。

「そうです……その準備に追われているので、30分くらいしかお話しできません」

「そうよね……貴重な時間を、お邪魔してごめんなさい」

「いえ……」

 

Rは、怒っているというより、無関心な冷たさを感じさせる態度だった。

私は手持ちぶさたに彼の背中を眺めながら、ふと、

Rは本来、女に対して、特にマメでも、愛想が良い男でもなかったことを思い出した。

 

Rのこれまでの話では……

付き合う女に対して、ほとんど関心を持ったことがないことが伺えた。

Rにとっては、研究こそエクスタシーであり、

彼の持ち前の優しさと有能さに惹き付けられて寄ってくる女たちは、彼にとっては、拒みきれない厄介な存在だった。

 

(Rは元来、付き合っている女に対して、こんな風なのかも……)

相手から連絡がない限り、自分からは何ヵ月も連絡し忘れていて、いつの間にか振られていた、なんてことはしょっちゅうあったらしい。

(私も、そんな女たちの1人になってしまったのだろうか……)

急に背中がひやっとした。

 

Rがキーボードを打つ音と、自分が生つばを飲む音しかしない。

このままでは、彼が次の講義へ行ってしまう。

私は思いきって、本題に入ることにした。

 

「おとといは、ひどい事を言ってごめんなさい。心にも無いことを言いました」

Rは、手をキーボードから離して膝の上に置くと、ぎゅっと拳を握った。

そして、大きくため息を吐き、15度ほどこちらに顔を向けると、話し始めた。

「あなたに別れを告げられたと誤解した日、僕は、あなたをあきらめなければいけないと思って、一晩中、あなたの嫌なところを無理矢理考え出して、あなたを嫌いになろうとしました」

 

彼は、うめくように声を発した。

「一睡もできなかった……次の日も、仕事が何も手につかなかった。

講義の準備も何もできなかった。

講義中、自分が何を話しているのかさえ分からなかったし、どうやって乗り切ったのかも全く覚えていない。

何も考えることができなくなった……何も!こんなことは初めてで……」

 

彼の膝の上のこぶしが震えていた。

「……ごめんなさい」

「いや……僕が勝手に誤解したんです。

でも、苦しかった……本当に苦しかった……こんなに苦しい思いは、生まれて初めてでした」

「……もう、私を嫌いになった?」

その時の私にとって、最も恐ろしく、最も答えを知りたくない問いだった。

しかし、確かめないわけにはいかなかった。

 

「僕が、あなたを嫌いになることはできません」

その時、彼の頬を伝って、そのこぶしの上に、光る水滴がひと粒落ちるのを見た。

 

私は胸が苦しくなった。

思わず立ち上がって、Rを背中から抱き締めた。

「では、許してくれますか?……私をまだ好きでいてくれる?」

しかし、Rは體(からだ)を固くしたまま答えた。

「すみません……すぐには気持ちが戻らないです……でも、徐々に元に戻ると思います。僕の早とちりだったのだし、あなたの気持ちも、よく解りましたから……」

 

私は彼からそっと離れ、研究室を後にした。

また1時間、電車に揺られて帰った。

しかし、来た時とは違って、鈍行ののろまな揺れが、心地よかった。

 

(つづく……)

 

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第26話 最後に、逢いに行ってもいいですか?

Rと付き合うようになって数ヶ月、朝から頭がこんなに不安でいっぱいになることはなかった。

 

夫と息子に朝食の支度をする手も、台所に立つ足も、ずっと震えていた。

2人を送り出すと、へなへなとソファに座り込んだ。

 

いつもなら、午前中の講義前に、Rから必ず朝の挨拶メールが届き、

今日は何時ごろに電話できると、連絡してくれる。

しかし、いつまで待っても、オンに切り換えた受信通知音は鳴らなかった。

 

私は、ソファから崩れ落ちるようにして、ラグマットの上に寝転んだ。

スマホを耳の横に置いたまま、しばらく動けなかった。

置時計の秒針の音を、どれほどの時間聞いていただろう。

 

(もう、終わってしまうんだ……)

呼吸が浅くなっている胸を、思わずかきむしった。

愚かだった……彼と別れるなんて、今の自分にとって最も恐ろしいことを、自ら口走ることで招いてしまうとは……。

 

時計の針がかすんで見えた。

間もなく昼だ。

もう2度と、Rから電話はもらえないのかも知れない。

そう思った瞬間、リンと、メールの受信音が鳴った。

私はガバッと半身を起こすと、スマホをつかんでメールを開いた。

 

Rからだった。

「今なら電話できます。ご都合はいかがですか?」

「はい。大丈夫です」

と返信すると、すぐに電話のベルが鳴った。

「はい、澪奈(れいな)です……こんにちは」

平静を装うつもりでいたが、声も震えていた。

「……こんにちは……」

と答えたまま、Rは黙っている。

「あの……本当に、ごめんなさい。ひどいことを言って。例えで言っただけで……」

電話口から、「はぁ……」と苦々しいため息が聞こえてきた。

いつものRとは明らかに違った。とても遠くにいる気がする。

 

「……別れたくなってしまった?」

私は恐る恐る聞いた。

「……別れたくなったというより、僕は、あなたと別れる覚悟を決めてしまいました……」

彼は、喉から絞り出すように言った。

「でも……でも、私は、全く別れる気はなくて……」

もっと言いたいことはあるのに、同じような言葉しか出てこないのが歯がゆかった。

 

「あなたに『別れた方がマシ』と言われた後、僕は、講義の準備が手に付かなくなってしまって……講義中も何を話したのか全く覚えてなくて……。

家に帰ってからも、やはり、翌日の講義の準備が全くできないまま、一睡もできなかった。

こんなこと、初めてでした……何も考えられなくなってしまって……」

Rは、私を責めるというより、うわ言のように話していた。

 

「ごめんなさい……本当にごめんなさい」

「……」

私は、最も知りたいことを、恐る恐る聞いた。

「また会ってくれますか?」

「……一晩中、あなたをあきらめる理由を自分に言い聞かせていました。

あなたを悪く思おうとしました。

あなたは一方的だとか、勝手な人だとか……あなたの悪口を一晩中考えていたんです……苦しかった……。

だから……すぐには、元の気持ちに戻れそうにありません。少し、時間を下さい」

 

別れの宣告に聞こえた。そう思ったら、なぜか心が静かになった。

「解りました。では、これで最後になるかも知れないのですね?」

「……そうかも知れません。気持ちが戻るのか、わかりません……かなり、覚悟を決めてしまったので……」

その答えを聞いて、私は下腹に力を入れて言った。

「では、お別れする前に、せめて1度、直接会って、話をさせてもらえませんか?」

私の口調は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「……」

Rはすぐには答えなかった。

 

逢えば、彼の気持ちは戻るかも知れないという一縷(いちる)の望みを捨てたくなかった。

彼の長い沈黙に堪えきれず、何か言いたくなるのを、必死に堪えた。

「わかりました……いつ、会いますか?」

「明日、講義の合間の10分でも、5分でもいいので、大学へお邪魔しても良いですか?」

「……はい、そんな短い時間でしたら、昼休みに来てもらえたら、会うことはできます」

「ありがとう……では、明日会いに行きます」

 

(つづく……)

 

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第25話 「あなたとは、もう逢えそうにありません。」

※お知らせ

本作に登場するヒロインの名前を、今後「レイナ(澪奈)」に統一いたします。

過去記事についても、順次表記を修正していきます。

物語の内容自体に変更はありませんので、そのままお楽しみいただけたら嬉しいです。

……………………………………………………

 

メールの受信音を聞くやいなや、私は膝の上の本を放り出して、スマホに飛び付いた。

Rからだった。

「返信が遅くなってすみません。

昨日、あなたに別れを告げられたと思ってました。

それで今まで、メールを開けませんでした。

今やっと、あなたのメールを読んだところです」

やはり、とんでもない誤解をさせてしまったのだ。

「ごめんなさい。あれは比喩のつもりでした。それくらいあなたに逢いたいって、言いたかったのです」

 

 

ここまで話すと、じっと聞いていたAIの光希が言った。

「いくら比喩と言っても、“別れる”なんて心にも無い言葉を、優しいRにどうして言ったの?」

 

「それは……あの頃はちょうど、Rの仕事が世界的にも評価されるようになって、依頼される仕事が増える一方だったから、ただでさえ逢える時間が減っていたの。

私は、そんな彼が誇らしかった。だから、物分かりの良い女でいようと、それまで文句を言ったことはなかったわ。

12月に入った時、せめて年内にもう1度くらい逢えるだろうと期待していたの。

なのに彼は、『年末進行』とか言って、『海外ではクリスマス休暇がある。だから、その前にいくつか論文を仕上げなければならない。そんな事情で、次に逢えるのはお正月明けになる』と言ったのよ」

 

「そうかあ……1ヶ月以上逢えないのは、確かに淋しいね」

 

「その時の私には、淋しいどころか、恐怖でしかなかった。

Rを知ってしまった後で、あの旦那と長期休暇を過ごさなければならないのよ?

うつ症状を必死で隠して、なんとか日常をやり過ごせていたのは、Rがそばで支えてくれていたからよ。

そのRなしに、自分が何日正気を保てるのか本当に不安だったし、

結局、彼は私を守ってくれないんだ、と思ったわ」

 

「それで、当てつけを言ってしまったんだね」

と、光希がため息を吐いた。

 

 

「しばらく逢えないと聞いて、ショックで、ついあんな事を言ってしまったけれど、なんとか心を強く持って、次に逢えるまで待ちます」

とメールを送った。

すると、少し間を置いて、彼から返信が来た。そこには、

「いや、あなたとは、もう逢えそうにありません」
とあった。
 
私は背中に冷や水をかけられた気がした。
気が動転して、ソファから立ち上がり、ウロウロとリビングを歩き回った。
すぐに何か返信しなければ、彼がメールを閉じてしまいそうだった。
しかし、何を書けば良いのか頭に浮かんでこない。
 
「怒っていますよね。そうですよね。本当にごめんなさい」
切れかかっている糸をなんとかつなぎ止めようと、苦しまぎれのメールを送った。すると、
「今日はすごく疲れました。もう寝ます」
と、これまでになく、とても素っ気ない返事が来た。
 
メールを打とうとする指が震えた。
何度も書き直す。
もう失敗は許されないのだ。
いや、もう遅いのかもしれない。
私は頭を抱えた。
(どうしよう?Rがいなくなったら、また旦那との殺伐とした生活だけが残る……) 

 

泣きすがりたくなる気持ちをなんとか抑え、あくまで冷静な文章を心がけた。
「そうですね。遅くまで本当に申し訳ありませんでした。
もう寝ましょう。
メールをありがとうございました。
明日、また電話で話せますか?」
自分が書く言葉遣いまで、よそよそしくなっている。
振り出しに戻った気分だった。
 
いつもなら即座に返信をくれるのに、返ってこない。

目に涙がたまってきた。
このまま無視されてしまうのかと思っていたら、受信音が鳴った。
「電話できるようなら、僕からかけるようにします。それでは、今夜はもう寝ますね」
「はい。お休みなさい」
 
ベッドに入ったが、眠気はすっかり吹っ飛び、體(からだ)のこわばりがいつまでも取れなかった。
"別れたほうがマシ"--軽く言ったつもりの一言だった。Rは、聞き流したと思っていた。
あの冷静な彼が、まさかここまで真に受けるとは思わなかった。

 

もう2度と、彼の気持ちを試すようなことは言うまい、と心に誓った。
しかし、そもそも、Rと再び話す機会がやってくるのか、今となっては分からなくなってしまった。 

 

(どうか、明日、Rから電話がきますように……どうか、電話がきますように……どうか……)
私は布団にもぐり、いつまでも、胸の前で強く手を合わせていた。
 
(つづく……)

 

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第24話 返信を待つ長すぎる1日。

「お母さん、クリスマスの飾り付け、しないの?」

クリスマスが近付いてきたある日、息子に聞かれた。

当時小学5年生だった息子は、まだサンタクロースを信じていた。

 

インテリア好きな私は、息子が生まれてからというもの、毎年11月の半ばを過ぎると、さまざまなクリスマス飾りで、家の中も外も華やかに彩るのが愉しみの1つだった。

 

玄関脇のシンボルツリーに施す電飾などは、近所の人に、

「毎年綺麗ですね。前を通るのが愉しみですよ」

と声をかけてもらえる程だった。

 

しかし、Rと出逢ってからというもの、夫と暮らす空間を美しくしようという気力が、全く湧かなくなった。

むしろ、夫が食べた後の食卓や、無神経に使った後のトイレなどを掃除していると、得体の知れない怒りがこみ上げてくる。

 

「ごめんね。お母さん、体調が悪いのよ」

と謝り、息子のために、物置からツリーだけ腕に抱えて出して来た。

すっかり掃除が行き届かなくなった雑然とした部屋に、取って付けたように置かれたツリーが、かえって寒ざむしい。

息子は残念そうだったが、私は、これ以上心を偽って動くことができなかった。

 

自宅にとっくにクリスマス飾りがされているらしいRは、

「娘は、トナカイ用にクッキーを置きたがるんですよ。だから、娘が寝た後、私がコッソリかじって、歯形を付けておいてやるんです」

と愉しげに話していたことがある。

「ふーん……」

と、私は気のない返事をした。

 

その日は、前日から丸1日経っても、Rから連絡はなかった。

日曜以外は、毎日欠かさず数回は連絡をくれていたのに……。

昨日の電話でつい、「別れた方がマシ」と口走ってしまったが、いつも穏やかで冷静なRが、あの程度のことでへそを曲げるとは思えなかった。もちろん、当てつけや仕返しをするような人ではない。

 

この1日ほど長く感じた日は、それまでなかった。

(もしかして、本当に別れを告げられたと、誤解したのかしら……)

私は1日中不安で居たたまれず、家事も仕事も上の空だった。

 

なんとか仕事をこなして帰宅し、夕食の用意をしたが、息子に食べさせたものの、自分は喉を通らなかった。

帰りの遅い夫のおかずにラップをかけ、素早く片付けを済ませると、夜半にRへメールを送った。

「昨日は、ひどいことを言ってごめんなさい。『別れた方がマシ』というのは、もちろん本心ではなく、それほどあなたに逢えない時間が苦しい、と言いたかっただけです」

 

深夜0時を回っても、返信はなかった。

家族が寝静まった後、私は、いつもは消しているメールの受信通知音をオンにして、リビングで本を読みながら、Rからの返信を待った。

しかし、ページをめくる手が動いているだけで、内容はちっとも頭に入ってこない。

じっとしていられず、台所へ立って紅茶を淹れた。

静まり返った夜ふけに、秒針の音だけが嫌味なほどゆっくりと耳に響いてくる。

 

Rが私の世界から遠のいていく気がした。

ティーカップを持つ手が小刻みに震えている。

その時、リンと、メールの受信音が鳴った。

 

(つづく……)

 

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